Luciaピアノ教室
横浜市保土ケ谷区 西谷

プロフィール




講師 早坂 愛乃 Chikae Hayasaka
京都教育大学教育学部音楽科教育卒。
4歳でクラシックギター、7歳でヴァイオリン、10歳でピアノを始める。小学生からオーケストラに所属、中学生で地元合唱団のピアノ伴奏を務める。吹奏楽部では打楽器を担当。
大学卒業後、小学校教員として計約8年間勤務、学級担任の他、音楽専科等を担当しながら音楽活動を続ける。
マーチング一般バンド「YOKOHAMA ROBINS」にて2年連続全国大会出場、2位、3位受賞。
チェンバロプレジャー大人の部、準グランプリ、審査員特別賞受賞。
幼稚園・小学校・中学校・高等学校(音楽)各一種教員免許状取得。
Luciaピアノ教室主宰。
ピティナ指導者ライセンス初級・中級・上級の全級を取得。
ピティナ正会員。ブルグミュラーコンクール、レッスン賞受賞。
日比谷支部所属。日比谷ゆめステーションにて、勉強会・ステップ等のスタッフとして活動中。
ストーリー
幼少期
大阪府寝屋川市に生まれる。
3歳の時、土が汚くてさわれない私を見た両親が、このままでは自然を知らない子に育ってしまう、と兵庫県淡路島への移住を決意。山を切り開いた高台に建てた家で、自然に囲まれ過ごす。
一人っ子だったが、決して甘やかされることはなかった。
大手ギター教室の講師だった母の元で、4歳からギターを始める。覚えが良かったようで、指導に熱心になった母はとても厳しく、当時はギターを楽しいと感じた記憶がない。
母も、このままではいけないと感じていた頃、知人にヴァイオリンの先生を紹介してもらい、7歳でヴァイオリンに転向。毎週末、神戸まで船と電車でレッスンに通うようになる。
小学・中学時代
親戚も誰もいない島への移住で、友達はいるもののどうしても心から地元に馴染めず、事あるごとにいつか都会に出たいと思い始める。
ギターの経験が生きたのかヴァイオリンの上達も早く、発表会等では高校・大学生のお兄さん方からも一目置かれる。
小学3年生から、ジュニアオーケストラに所属。遠方での合宿や定期演奏会、後に、コンサートマスター等貴重な経験をさせてもらう。
小学校4年生になる頃、知人からアップライトピアノを譲ってもらい、地元のピアノ教室に通い始める。ピアノを習い始める年齢としては遅かったが、3つ目の楽器ということ、そして音符が読めたこともあり、こちらも進みが早かった。初めての発表会でダカンのかっこうをテンポよく弾いたので話題になり、母がママ友から質問攻めに合う。小さい頃は緊張もなく、本番にも強かった。
自宅で阪神・淡路大震災を経験する。震源地の隣町で父の留守中に母と二人で被災、運良く助かるが、当たり前のように生きている日々の大切さを痛感。数日後、「自分の目で見ておいた方がいい」という父と神戸に渡り、震災の爪痕を心に刻む。
中学校では合唱コンクールの伴奏や、地元の合唱団の伴奏を担当する。
吹奏楽部への入部を先輩に強く勧められるが、ヴァイオリンのレッスンと部活の練習日が重なることで入部を断念。美術部に入る。
中学1年生の時、島内の中学3年生が一同に集まる大きなホールでヴァイオリンのソロ演奏を経験させてもらうが、演奏曲順を間違えるというミスをし、恥ずかしい思いをする。
この頃、ピアノの発表会で苦手な曲がうまく弾けなかったことを機にスランプを経験し、本番の怖さを知る。
高校時代
兵庫県明石市の公立進学校に入学する。毎日、車、船、電車、バスを乗り継いで通学。
吹奏楽・マーチングで全国大会に出場している吹奏楽の強豪部に入部する。フルートとファゴットを練習し始めるものの、休みが全くなく、やはりヴァイオリン、ピアノのレッスンやオーケストラとの両立が難しいことからなんと二週間で退部。その後、長く後悔し続けることになる。
人生で最も勉強を頑張ったのが高校時代。
塾に通ったことは一度もないが、独学でこその勉強の楽しさ、やりがいを知り、2年生の時初めて試験で学年約360名中、2位をとる。
大学受験直前に父が退職。音楽大学や私立大学の受験を断念する。
神戸大学を第一志望とし5教科を必死に勉強するも、センター試験の数学で問題の意味を取り違え、点を落とす。厳しい状況でも志望校は変えず、受験に挑戦する。
第二志望の京都教育大学とそれぞれヴァイオリン、ピアノと別楽器で受験するため、勉強の他、2つの楽器の試験曲練習、楽典、視唱、聴音などの専門試験準備に明け暮れた。
大学時代
京都教育大学教育学部に入学し、音楽科教育を専攻する。
かなり築年数の古い学生寮で集団生活が始まり、心身ともに強く鍛えられる。
父の退職に伴い父母の負担を減らすため、何とか成績を維持。3年間は授業料全額免除、最後の1年は半額免除で通学させていただく。
大学では主に音楽科教育の勉強に力を入れて学ぶとともに、小学校、中学校で教育実習を行い、小・中・高等学校の教員免許の他、幼稚園教諭免許を取得。様々な学齢の教育の基本を学ぶ。
中学・高校時代、吹奏楽部を断念した苦い経験から、今度こそと吹奏楽部に所属。パーカッションを担当する。マーチングへの憧れも強く、他大学との合同演奏会で初めてマーチングを経験。念願のバッテリーで、シンバルとバスドラムを担当する。パートリーダー、パンフレット係リーダーを兼任。パートのメンバーや仕事をまとめることの難しさ、責任感を学ぶ。
入学試験はピアノで合格したものの、入学後はピアノよりヴァイオリンを重視。
大学に専門の先生がいないため、以前から師事していた外部の先生について、卒業試験、卒業演奏会をヴァイオリンで受ける。
教員時代~
結婚・育児、復職
神奈川県の教員採用試験に合格。大学卒業と同時に横浜の伯母の家に下宿し、片道1時間半以上かけての通勤が始まる。
小学校教員として低学年1、2年生の担任を担当、充実した日々で仕事に情熱とやりがいを感じつつも、責任感の重さと膨大な仕事量、残業の多さに驚く。
社会人になって1年後、一緒に上京していた大学の同じ音楽科の同級生と結婚する。
仕事にも慣れてきた頃、大学時代のマーチングの楽しさを忘れられず、新婚ながら横浜のマーチング一般バンドに入隊。平日は朝から晩まで仕事、土日は朝から晩まで練習という状態で二年間活動し、全国大会で3位、2位を受賞。この頃、同時に現在の自宅を新築し、化学物質の少ない安全性の高い家を目指して珪藻土や柿渋などを自分たちで内壁や床に塗るという貴重な経験をする。
淡路島から両親を呼んで同居、長女の妊娠を機に産休・育休に入る。その後、次女も生まれて数年間は育児と家事に専念する。
長女の幼稚園からの案内で吹奏楽サークルのコンサートを聴きに行ったことから、吹奏楽熱が再燃し、同じサークルに入隊。大学時代は勇気がなくて避けてきたドラムを偶然担当したことから、ドラムの魅力に取り憑かれ、ドラムのレッスンに通い始める。その後、横浜の一般吹奏楽団に入団、主に鍵盤楽器とドラム、ピアノパートを担当する。
同じ時期に、短時間勤務で小学校教員として復職すると、よりハードな生活となる。平日は通勤往復3時間+残業、保育園の迎え、週末は吹奏楽の練習と娘の習い事のサポート(衣装を手作りしたり大会の付き添い、係のリーダー等)で走り回る。
長女が3歳になった頃(次女は5歳になる頃から)、自宅で娘にピアノを教え始める。
長女が小学生の時、パイプオルガンやチェンバロに挑戦し、長女はチェンバロプレジャー子どもの部で3年連続グランプリをいただく。その後、次女や夫も参加。
私も大人の部で準グランプリ、二年目は審査員特別賞をいただく。しかし三年目、フルートの友人とアンサンブル部門に出場した際、終盤になって私の暗譜ミスのために演奏中断となる大失敗をしてしまう。あのまま演奏できていたら…と相手の方への申し訳なさと後悔から猛反省し、以来、今まで以上に楽譜、暗譜に対する意識が強くなる。
ちょうどこの頃、自分の演奏が録音されたものを改めて聴いた時に自分の思っていた演奏が出来ていなかったことに衝撃を受ける。以後、練習の際には必ず録音、客観的に振り返りながら修正を繰り返す練習方法を徹底するようになる。
退職~教室開講
小学校では、音楽や書道の専科として1クラス40人前後、多い時には年間400名近い子どもたちと関わる中、集団への全体指導より一人ひとりと一対一でもっと深く関わりたいという気持ちが強くなる。
復職から3年後、小学校教員を退職し、1年後にピアノ教室を開講する。
当時はほとんどが娘たちの学校の同級生で、口コミとピティナの教室紹介のみで少しずつ生徒さんが集まる。
長女が小学4年生になった頃(次女もその半年後)、近くでコンクールに力を入れているピアノ教室に入会し、親子ともに深く勉強させていただく。数年間、様々なコンクールで賞をいただくが、学年が上がるに従い、2人ともピアノやコンクールに対して徐々に気持ちが後ろ向きになってしまう。
その頃ちょうど、他教室から移籍された生徒さんたちの現状に疑問を抱いたこともあり、親としても指導者としても悩んだ結果、渡部由記子先生の門を叩く。そこで指導者ライセンスを受けることを勧めていただき、一年間でライセンス全級を取得する。
正会員にもご推薦いただきこれから頑張ろうという時、父の悪性リンパ腫に続く認知症の被害妄想が一気に進み、介護や対応に翻弄される。
半年間施設を転々とし、今の施設でやっと落ち着いて穏やかな生活が送れるようになり、娘たちもそれぞれの進路に向かって歩み始めた。
私自身も、新たな心意気で前進したいと今に至る。